研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

岩田規久男『「小さな政府」を問い直す』

「小さな政府」を問いなおす (ちくま新書)

「小さな政府」を問いなおす (ちくま新書)

まず、対照的な二つの書評を紹介。

『「小さな政府」を問いなおす』(こら!たまには研究しろ!!)
http://d.hatena.ne.jp/Yasuyuki-Iida/20060927#p1

岩田規久男「「小さな政府」を問いなおす」』(bewaad institute
http://www.bewaad.com/20061011.html

いろいろ勉強になったが、いくつか疑問が残る本であった。特に、「ナショナル・ミニマム」の話と、「選別主義」の話は、今後じっくり考えていきたい話題だ。

まずはナショナル・ミニマムの話から。著者は次のように書く。

しかし、ほとんどの地方自治体でナショナル・ミニマムの行政サービスが提供されるようになった現在は、国が地方自治体をいちいち指導して、行政サービスの量と質を確保する必要はない。地方の住民が必要としている行政サービスも全国一律ではなくなっている。こうした状況では、地域住民に近い地方自治体、中でも市町村が行政サービスの優先順位を決定する主体にならなければならない。すなわち、中央集権制から地方分権制の改革である。(pp.204)


中央集権制から地方分権制への改革、というのはその通りだと思うのだが、「ほとんどの地方自治体でナショナル・ミニマムの行政サービスが提供されるようになった」という現状認識の根拠はどこにあるのだろう。

この点に関して、bewaad氏も次のように指摘している。
http://www.bewaad.com/20061011.html#c16

「最低限のサービス」が何かについて具体論がないまま、今は最低限を超えているということだけがアプリオリに主張されていることが問題ではないかと思うのです。

やり方に無駄があるというなら、あるいはインセンティヴに歪みを生じさせているというなら、それらを是正することにも異論はないでしょう(どう是正するかはさておき)。でもそれらはイコール総額減少と限った話ではないはずです。

ナショナルミニマムが何かとは、経済学が答えを出せる問題ではなく、理想を言えばコストと便益が示された上で国民の多くのコンセンサスを得られるものでしかないでしょう。便益を上回るだけのコストが必要であっても、それを承知でそれがナショナルミニマムだと多数が認めるならば、それを誤った判断だと言える材料を経済学は持ち合わせていないと思います。

こうした観点からは、経済学者が本件について行うべきことは、それこそ基準財政需要の算定根拠となっている個々の事業を精査して、この事業はこれだけのコストをかけてこれだけの便益しかありませんが、それでもやりますか、と問うことだと思うのです。そうした作業の結果としてコンセンサスを得てナショナルミニマムが切り下がるのであれば、エントリに書いたようにそれに異議をさしはさむつもりはありませんが、そうした作業なくして総額が多いに決まっている(=現在ナショナルミニマムとされているものは過剰に決まっている)といわんばかりの主張をするのはおかしいのでは、と考えています。

私もそう思う(ただし、厚生経済学は「ナショナルミニマムとは何か」を考える際の手がかりを与えてくれるとは思うが)。一年半くらい前のエントリでも似たようなことを書いた。(久しぶりに読んで気付いたが、このエントリを書いた時よりもむしろ今のほうが経済学を学ぶモチベーションが高くなっており、喜ばしいことだ笑)

『経済学者に関するメモ』
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20050329
より

このようなまとめかた(*山下耕治氏の論文について。原文参照)は、さきほどの佐藤先生の言葉を借りれば、「価値基準(公平と効率)に依拠して、公共政策への判断も異なってくる」ことに対する配慮がなさすぎるように思う。こういう書き方をするから、非・主流派経済学者や社会学者や思想家からいらぬ経済学不信を招くのだろう。ソフトな予算制約問題を認めたとしても、その後の政策提言は、公平と効率を考慮したもちょっとバランスのとれたやり方があると思う。

もちろん、それは簡単なことではない。経済学では、効率に関してはパレート効率という一貫した理論内在的基準があるのに対して、公平に関してはそういうパキっとしたものはないからである(ですよね・・・?)。だけど、そういうめんどくさいことをやりたくないのだったら、政策提言に首をつっこまずに実証分析の結果だけを述べるに留めてほしい。

ナショナル・ミニマム」という概念は、イギリスの社会学的な社会政策研究や貧困研究(ちなみに、日本での社会学の一般的なイメージからイギリスの社会学的な社会政策研究や貧困研究をイメージしてはいけませぬ。)あたりでよく議論され、普及した概念だと思うのだが、どうも経済学者は不用意にこの言葉を使う傾向がある。他の学問分野に対する敬意や配慮が足りないのは、社会学者も経済学者も同じだ。

例えば、介護保障制度一つとっても、「介護のナショナル・ミニマムとは何か。何を基準にそのことについて考えればよいのか」ということになると、政策レベルに限定しても、要介護度別のケアプランのあり方やその効果とか、かなり細かいところまで突っ込んで考えざるを得ない。「マクロレベルでの適正な財政規模」というのも、そういうミクロレベルの「ナショナル・ミニマム」からの積み上げを一つの判断材料にして考察せざるを得ない。

高齢者介護の分野では、ゴールドプラン前後から、社会政策学者や社会福祉学者を中心に「老人(高齢者)保健福祉計画論」とか「介護ニーズとサービス必要量の測定」といったミクロレベルからの積み上げの調査・研究が精力的に行なわれて、介護保険制度創設へと繋がっていった。

一方、障害者介護では、自立生活運動を通じて、一部地域では、介護保険では考えられない24時間介護保障の実現によって、かなり重度の障害者でも一人暮らしが可能となった。これは、上記の高齢者介護の調査・研究とはほとんど完全に独立した「社会運動」の流れの中で実現したものだ。そして、障害者介護の「ナショナル・ミニマム」は現在、いい意味でも悪い意味でも高齢者介護の「ナショナル・ミニマム」との整合性が問われ始めてきており、それはもう、運動的にも学問的にも、大きな混乱の中にあると言っていいだろう。

あまり話が拡散してもよくない。ただ、いいたいことは一つだけ、「ナショナル・ミニマム」はそんなに簡単な話ではない、ということ。歯切れは悪いのだが、とりあえずそうとしか言いようがない。だからあまり歯切れよく、「ナショナル・ミニマムは十分に提供されるようになった」という自分の価値判断を、きちんとした根拠を提示することなく政策提言の中にもぐりこませないでほしい。どうしてももぐりこませたいならば、もう少し歯切れ悪く、自信なさげに、「これは個人的な感覚、価値観にすぎないが」と断って欲しい。それが学者の良心というものではないだろうか。

最後に、この本では格差問題に対する切り札として、「選別主義」を提案している。

真に助けを必要としている人に手厚い社会保障制度への改革(選別主義の導入)と多くの人が自立できるための「機会の平等」を拡大する改革を推進する。(pp.246)

これもずっと前から「今後の課題」と述べているが、選別主義的な社会保障給付が、どの程度、そしてどのように「格差是正」に有効なのか、有効でないのか、実証的にも理論的にもきちんと検討する必要がある。どうも一部の経済学者は、単純なモデルや単純なイメージに基づいて、「選別主義的な社会保障給付は、普遍主義的な社会保障給付に比べて、効率性をあまり損なわずに、それなりの公平性を確保できる」と認識しているように思われる。私もその可能性を否定するわけではないのだが、もう少し慎重に考える必要性を感じている。

これもまた社会学系の社会政策研究、貧困研究、福祉国家論では多くの研究がある。これらの研究では、選別主義的社会保障は否定的に語られる傾向があり、その理由についてきちんとフォローする必要がある。

一方、この話題に関しては、財政赤字や公正と効率のバランスの問題が問われている現代では、もっと経済学的な分析道具を用いて厳密に理論的、実証的に研究される必要があると思う。理論的には、以前にも取り上げた、以下の論文が興味深い(やっと論文はゲットしたけど、まだ読んでない。。。)。実証的研究はよく知らない。理論的にも実証的にも要勉強の分野なので、いい文献あったら誰か教えて下さい。

"Targeting and political support for welfare spending"
http://ideas.repec.org/a/spr/ecogov/v2y2001i1p3-24.html

Abstract

This paper investigates the political support for social assistance policies in a model in which incomes are stochastic (so that welfare policies have an insurance benefit) and unequal ex ante (so that welfare policies have a redistributive effect). With self-interested voting, narrow targeting may so reduce the probability of receiving benefits for the majority that the majority prefers to eliminate benefits altogether, even though the cost of narrowly targeted benefits is close to zero. In contrast, a majority of self-interested voters always supports positive welfare benefits when the policy is targeted sufficiently broadly. If voters are somewhat altruistic, the impact of targeting on political support for welfare spending diminishes but does not disappear.