研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

3点メモ:レイシズム、スウェーデンと日本の男女間賃金格差、ウェブ論壇

この3点を有機的に結びつけながら、、、ではなく、個別ばらばらにささっとメモ。

レイシズム

エスカレートするレイシズム
http://www.mojimoji.org/blog/0218

この動画ヘの感想は下記エントリと同じだが、にしても酷いな。

メモ:排外主義それ自体が暴力です(by Mojimojiの日記。みたいな。)
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20091007#p1

ここまであからさまに暴力を全面に出されると、議論する余地のある事柄も怖くて議論できなくなってしまう。

こういう人たちが暴力を全面に出せば出すほど、彼らの意見(の一部)に賛同する市井の人々が、彼らへの支持を撤回することになればいいのだが、逆に自らもそちらの方向に引き寄せられてしまう人々が増えるとすれば、これは本当に嫌な社会になる。

スウェーデンと日本の男女間賃金格差

The Sex Wage Gap in Japan and Sweden: The Role of Human Capital, Workplace Sex Composition, and Family Responsibility
http://esr.oxfordjournals.org/cgi/content/abstract/23/2/203

社会学者のブログ経由で存在を知る。計量分析と比較研究の組み合わせというのは一般的にとてもインフォーマティブで、最も多く行われているのは、国別のマクロデータを使ってクロスセクション・パネルデータ分析によってたくさんの国を同時比較するものだ。もちろん、これはサンプル(データセット)は一つなわけだから、厳密には国ごとの「比較」とは言えないのかもしれないが、少なくとも分析結果のインプリケーションから国別比較を行うことができる。

それ以外にも、本論文のように(ちゃんと読んでないので違ったらすみません)、複数の国において、それぞれの国内のミクロデータや地域別データを用いて、同様の仮説・手法に基づいて独立に分析を行い、その結果を相互比較するというやり方もありる。こっちのほうは、比較できる国の数は減るものの、仮説や分析手法の妥当性の検証や、それぞれのお国事情に配慮したより詳細・厳密な国別比較という点では優れている点も多いような気がする。

ということを最近考えていたところに、日本とスウェーデンを対象とした本論分が紹介されていたのでメモ。いずれ読むかもしれない。

ウェブ論壇

政治学のたそがれ?
http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20091223

論点はコメント欄やトラバ先でかなり出ていると思うので、特に追記して書けることはないが。

第一線で活躍する経済学者や社会学者がネット上で尖鋭な議論を交わし、各学問の社会的アウトプットを盛んに発信するとともに、そこから紙媒体での仕事にも結び付けていっている

id:sunaharayさんも指摘しているように、狭い意味での「アカデミズムの第一線」で活躍している経済学者や社会学者で、ネット上で尖鋭な議論な議論を交わしている人はごくごく一部だと思う。そもそもアカデミズム(学会や査読付きジャーナル界隈)で活動している研究者にとって、査読なしの紙媒体での仕事は二次的、三次的なものでしかなく、特に若手にとっては、生活がかかっているだけにその傾向は顕著だろう。

ネットで頑張っている経済学者や社会学者や論壇人の人たちは、若手にせよ中年にせよ、なんらかのメリットがあるからそうしてるのであって、それは例えば社会的使命に燃えていたりとか、本の売り上げが伸びるからとか、紙媒体での仕事が増えるからとか、そういうことであって、狭い意味での「アカデミズムの第一線」での評価とはほとんど関係ないだろう。(ちなみにそういう点からいうと、実名ブログであることの恩恵を日々受けている人たちが、匿名ブログを罵倒するのは頂けない。特に経済学者であるならば、実名には実名、匿名には匿名であることのインセンティブがお互いに存在することを尊重してほしい。匿名の人たちだって、みんな好きで匿名であるわけではない。それはそれで窮屈な社会だとは思うが、それはまた別の議題。)

この傾向はkihamu氏がいうように、ジャーナルのオンライン化が進んでも変わらないと思う。すでに経済学でも社会学でも政治学でも主要な海外ジャーナルは(大学関係者であれば)ほぼ完全にウェブで読めるし、日本語の査読ジャーナルへの掲載論文もオンライン化が進んでいるし、そもそもディスカッションペーパー版を含めれば、多くの論文はウェブで読めるようになっている。だからといって、ブログで自分の論文を宣伝して業績としての評価を上げようという人はまだまだ少ないし、たとえそう試みたとしても、うまくはいかないだろう。それはkihamu氏もご存知のとおり、ブログ論壇とアカデミズム論文の評価者や評価軸はかなり異なるからだ。

個人的には、ブログ論壇(というか、最近は紙媒体の論壇とも連動してきているので、もう論壇といってよいかも)もアカデミズムも、どっちの評価者・評価軸も一長一短で優劣つけがたいとは思っているのだが、その厳密さや難易度でいえばアカデミズムのほうが厳しく狭き門で、内容が?でも勢いがあって声が大きくて切り口が面白くて楽しく読ませられれば評価されるブログ論壇のほうが簡単だろう。ただもちろん、そこから紙媒体に繋がって、さらにそれが広く社会的な反響を呼ぶようなものを書けるのは、その中でもごく一部で、そこまで来るとけっこうな難易度になるのだと思うが。

海外のブログ論壇についてはよく知らないが、日本にもよく紹介されるアメリカの経済学ブログ論壇も、一仕事成し遂げて地位安泰の大物経済学者が中心なのではないだろうか(これに対応する日本の経済学ブログ論壇はたしかに存在しないが)。最先端の厳密で小難しい議論は、やはりジャーナル中心で行われているはずだ。ただアメリカの場合はもう少しお互いがインタラクティブなのかもしれないが。

とりとめもなく、とくに結論はないが、個人的にはkihamu氏の問題提起に共感する。ただ、最近の社会科学は、経済学はもちろんのこと、社会学政治学も、理論も実証もますます"science"化しているだろうから、ブログの閾が下がって"Scientist"と化した社会科学者がどんどん算入したとしても、今も一部で見られるように、淡々と研究メモを繰り広げる内容のものが増えるだけかもしれない。それはそれでとても面白いし有益なのだけれども、私としては、"Scientist"の化けの皮がはがれるようなプロレスがたまにはみたいところ。

どんなにアカデミックジャーナルで"Scientist"を装っても(誤解してほしくはないが、このような作法自体は大切だと思っている)、社会科学は価値判断からは自由になれないと私は考えてるし、だったらこの論文やあの論文を書いている人がどんなキャラでどんな思想を持っているのか、ブログ論壇でわかるのは楽しいし、社会科学上も有益だと思う。ただ、"scientists"にとって、自分の価値判断をあからさまに公言することにあまりメリットはないだろうから、それもあまり期待できないかもしれない。

経済学説と政治的要素 増補改訂版

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